悪とは何なのか

 

以下は、昨日の最寄りの駅からの帰宅中の出来事である。
「他の人のせいにするな!!
悪いのは誰だ?悪いのは誰だ?」このような男の罵声とともに、幼女の泣き声が聞こえてきた。
本来なら「そのような音は聞こえなかった、自分は意識しなかった」として通り過ぎるのだろうが、昨日の夜は、その音を跳ね返して進むほど自分の思考機械としての意識は鋼鉄の強い盾を具備してはいなかったのだ。ここでは、男の発言内容について触れながら、その発言が自分の思考の発動を誘発した心理的原因を整理したいと思う。
これが国語の入試問題だとすれば、悪いのはその幼女だとその男は思っていることになるのだろう。
だが、そもそも「悪」とは何なのであろうか。辞書的解釈の例を取れば、「社会的規範に背く否定すべき事柄」となる。だが、それはつまるところ絶対的ではない。今まで絶対的だと思われてきた「時間」も相対的であるように、世界に絶対的なものなどないのかもしれないが、少なくとも僕には現代における悪という概念は、その象徴性が大きな特徴であるように見受けられるので、前出の「関数的」な定義は実用的でもないし、僕にとってみれば実際的でもない。
確かに、実際に「善」ではない行為をしたのはその幼女かもしれないが、だからといって彼女が「悪」とは思えない。僕は「悪」とは個々人の精神空間に存在する概念だと思うし、その行為が「悪」と認められるには、他者が認めるだけでは、それは「悪」とは認識され得ず、その「悪」とされるべきことを考えるもしくは実際にした主体がその行為が「悪」であると認識しなければ、それは「悪」とは言えないのではないかと考えている。
もうわかっているよ、字義の解釈をしても現実の変革には結びつかないよと思われる読者もいるかもしれないが、そのような無意識の日常に潜む我々の思考を制限してしまうものを見つけていくこと自体が、我々の思索的行為を研ぎ澄ますものであって、そこに社会科学や人文科学をやることの一つの意義があるのではなかろうか。