ブログ「してほしい教育と必要な教育の違いについて」の感想2/2

感想は前半部分に対しての感想と後半部分に対しての感想というふうに2つに分けて書いたので、今回は後半部分に対しての感想を発表したい。

正直に告白すると、先生が前半部分に書かれていたことについて僕は「ああその思想の必要性はわかっているのに」とあまり集中せずに読んでいたのだが、後半を読んでハッと自己反省した。重要なのは「わかっている」だけでなく自分のこととして考え続け行動し続けることであって、自分が前半部分を読んでぼやっと自然に思い浮かんだ悪魔の一言は、先生の努力を愚弄するにとどまらず、自分の可能性を自己遮断してしまうことだったと思う。生きるには徹底的な真摯さが不可欠なのである。容易に定型的なドグマへと堕するというのが人間の歴史です。イエスの踏み込んだ主張やソクラテスの「無知の知」という根本的な疑いですら、定型化することで無害化した上で、それがあたかも踏まえられてきたかのような顔をしては、踏みにじってきた

という主張は、前回のブログでの先生の発言である。「自己を超越する、自己の考えうる世界を拡張するという行為が宗教の広がりと興隆とともに本義からはずれ儀式化されてきた」(これは僕の表現だが、意味を厳密に定義できていないのが、使い物にならないことを証明している。)もしかしたら僕たちが生きることを怠慢することを目論見、間接的な対話の一部として毎回ブログを書いてくださってるのかもしれないが。

 

この「精神の柔軟性」(筆者注;同じような意図を含んでいると推察される表現として、『「自分の感じる違和感」に対して疑いをもつこと』や、『根本に自らの感覚を疑う姿勢』があった。)は一方では資質によるとも思うのですが、それよりはむしろ環境というか、要は「自分がこのままでは通用しない!」という危機感があるかないかが結局精神の柔軟性を準備するのでは、と思っています。危機感のない子は、非常に頑なであることが多いです。そのように世界を狭めては、うまくいかないままになってしまうことになるのでしょう。

ここが僕のなかで一番悩ましいところである。そもそも、何故僕が僕自身の回顧を中断まあ回顧といっても自分が追及しないところもあるわけだし、そこには何かしら悪い意味での甘さが残る。本当に読む価値のある批判的回顧というものは、再読しても、他者が読んでも、必然的に現在の自分のあり方を再回顧するようなものであるべきだと思う。そうしないと、その回顧は自分のツラさを一時的にしのぐ為だけに使われることになるのではないか。。(これは確信的に述べているわけではないが。)また、僕が近日ひたすら自分に甘さが残っているぞ、もっと強さを。と念仏のように自分の心に対して唱えているのは自分で自分自身に対して「うまくいかない」現実を危惧してでもそれがなかなか変えられないという葛藤が表層にある心に理性からのぼってくるからなのである。だがそのただひたすらの自分の呵責にしばられて真に効果のあるものを何もためせていないのが進退つかないところなのだろう。

 

以上、勢い余って感情を出し過ぎたせいで文構造がおかしなことになっている部分が散見されるがみなさんは冷静な目で見てくれることを願う。