商業的契約の意識は学校への積極性をもたらすか

商業的契約の意識は学校への積極性をもたらすか

 

このアイデア、まあ提案としての意味もあるは僕が先日書いた回顧談を見直すうちに思いついたものである。また、僕が回顧談を書こうと思った動機も、このアイデアのようなどうすれば自意識を学校に行くという風に持っていけるか、という問いに答えるものを生み出すことにあると考えられるので、とりあえず回顧談は休題としたい。

 

僕にとって学校は心理的ストレスになる場所という意味合いが強かった。それはなんでだろうか。

 

思えば僕は級友とは仲良くしたい、仲良くすべきだといういわば行動規範にも近いものをもって学校生活を送ってきていたように思う。だが、考えてみれば、まあ自分自身全ての友達と仲良くしたいなんていうことはこれっぽっちも思っていないけれども、それでも、仲良くなるということを前提に対話や友達付き合いをするなんてことはどだい僕には無理だったんじゃないかと思う。ああこいつはいい奴だ(このいいやつというのは道徳的にいいやつという意味では勿論ない。)と思ってはじめて友達であるという認識をもつべきだったのではないだろうか。あんまりパッとしない発見かもしれないが僕にとってはニュース記事レベルだ。

 

この「仲良くすべきだ」的な倫理意識は、学級とは敷衍していけば、学級は一つの共同体であるべきだという東アジア的な考えにつながるのではないだろうかと思う。つまり、学級に所属する生徒は人格や精神や知性なども含めて、全的な存在として、学級内においてもお互いに接するべきだという考え方である。だからこそ、僕は一般的に言う「友達付き合い」したり「よく喋ったり」するやつとでも、友達として精神的に交歓すべき相手としてみなしてきたわけで、それが僕の学校生活の不満足の要因だったように今となっては思う。

 

一方で、「アア、こいつはいいやつ」だと思う人間がどれだけいるかということだが、その数は学校という学力試験だけで選りすぐられた人間の集まる場所においては、天然記念物なみに少ないわけで、そのほかの大部分の僕がstressfulになってしまう人間に対してはどういう意識をもって接すればいいのかという話になる。尤も、ここが一番の問題である。学校生活のみならず、社会的に日常生活を送る上で必要になるのがこの問題にたいしてどう処置をしたかということである。

 

そこで、僕は商業的に契約を結んでいるのだと考えればよいのではないかと思う。つまり、自分という自己の全的人格を共同体に提出するのではなく、あくまで商業的に、「公共には自分のvalueableな能力だけを売ります、そこで学校や学級が僕になにかしら有益なものをくれるのならね。」「ただし、僕はそこで私的な取引や精神的な交歓などのprivateな行為は一切しませんよ、友達という概念や共同という概念は存在しません、まあ気に入ったやつとだけ話すのはbusinessのなかでたまたま出会った人と交友がはじまるのだと思って勝手にさせてください」「文化祭?僕は共同で文化を作りあげるなどという私的な自分の人格に関わる行為は面白くない限りごめんです」という風に、学級を人格の集合体だと見ずに、あくまで学級運営のためにいろんなやつが無作為に集まった場所で、まあ社会契約だと見れば良いんじゃないだろうか。ディスカッションなんかはあくまで聞く側と情報や文献の収集に回ればよい、うまくいくかどうかは別にして。