私と社会〜最近の脳内流行〜

私と社会

 

今自転車で急ぐように帰る人々には、いつもある種の共通項が存在している。ママチャリに乗っていても、クロスバイクに乗っていても殆ど普遍的に見られるこの共通項は、立ち漕ぎであったりとか、力をより蓄えるようにと背中を丸めるようにして漕ぐのであったりとか、醒めた目で見れば演技的にも思われる類のものである。このような癖は少なくとも日常的に、無意識的に行なっているのでは勿論ないだろう。おそらくは、自分は急いでいる、急ぎたいという意識的な思念が、自分を、一般が急いでいる時に彼らの観念から行う行動(背をまるめてこぐなど)を、自分にも強制させるからだと考えられるし、またそれが何故もっとも正しい、もっとも効果的な解ではないという可能性があるにも関わらず、急いでいる時決まってその行動をとるのは、それが自分は急いでいるという境遇に満足して浸れるものであるからというものが考えられる。これらの発想が実際に間違いではないという証左として、ジロデイタリアやツールドフランスなどのプロの自転車選手のペダリングの仕方を見てみると、上のような漕ぎ方は全くもってしていないのである。上のような漕ぎ方をすると、大臀筋が効果的に使われず、ふくらはぎや大腿の前側の筋肉を使って漕ぐことになるので、すぐに疲れるし、あまりスピードが出ない。

さて、何故私はこのような社会的な視点から見てみれば意味のないように思われる個人の行動について言及せねばならないのであろうか。そこにはこの文章における修辞的比喩的意味あいが多分に含まれている。人々が危機的状況(急がなければならないのが、常に危機的状況と判断されるに値するかという問題は、ここでは議論のそとに置いておく。)に直面した時にとるのが自分の考えたくないことをの起こる可能性を捨象して自分がひとまずの満足にひたれる方策を採用するというのが、よくよくとってみれば意識の面ではあまり大差ない事柄なのではなかろうか。

その一方、私がこのような指摘を行うと、「批判や評論ばかりするな、頑張っているんだから、やらないよりはやる方がマシだろう」というオコトバをくださる方がいるのである。ちなみに、私の付属中時代の担任がそうであった。さらにいえば、担任団のほとんどがこの意見に同調していたし、公立中時代の担任団は私の観察からみて5名中2名が完全肯定自分も「頑張りたい」、2名やや肯定的か、1名そうでない場合もあるといって風であった。感情的もしくは恣意的に言を呈するのは害悪的だし非建設的であるが、理性的に批判すること自体は帰結的にはその具体的理想像に基づく計画の質を向上させるものである。(純粋理性批判という書物を読まなきゃならんことに今気づいた!)また、勿論、私も良く考えられた挑戦は肯定するし、「批判や評論ばかりやって」自分の具体的理想像を持たず何も「やらない」のは問題だと考えているけれども、その人々のやっている行動が「頑張っている」と精神から評価できるのかというのは別問題であるように思う。例えば、極端な例を挙げれば「三菱重工爆破事件のひとたち」も彼らにしてみれば「頑張っている」のかもしれないが、中国主義や反新植民地主義というのは現在では相容れない思想であるように思うし、1970年代においても中国共産党一党独裁により腐敗した官僚は多く存在したわけで、彼らのやっていることが「資本家の搾取」と結果的に同義的であるという事実と中国共産党の信奉は矛盾していないかという疑問は一般に絶えず存在するように思われる。

ここまでなら、題名は「社会」だけで済まされるはずである。個人的にはここから先が自助努力的に解決するべき「問題」なのである。理性的な批判は(抽象的概念の理解度を高める必要がある)、長くその状態が続いていると冷笑的になってしまいがちなのであるが、冷笑的な態度をとるということはその事柄に対し、当事者的に考えない、その事柄について積極的に考えるという関わりを断つということを意味するのではないかと思う。どうしても疲弊してしまった時、不愉快になった時はしょうがない(あ、しょうがないは禁句だった)のかもしれないが、極力冷笑的な人格にならないようにすべきだし、最終的にはこちらが具体的理想像を明示するようにしたいともっぱら考えて私は勉強している。今日は遅いのでここまで。