連絡と今後のブログ

今後は自分の向上のためにも、読書内容に関するブログも積極的に投稿していく。

今週はルネ デカルト方法序説」の感想文および柳父章「Godは神か上帝か」の感想文、来週はM.モース「贈与論」、E.ボエシ「自発的隷従論」題名からは敬遠されるが、ダイアログしながら読めばなかなかおもしろい(識字階級しかこの本を読めないことを考えると、読者が「隷従」していたのは教会に対してだったんじゃねなど)、再来週は伊藤計劃虐殺器官」、有島武郎「小さきものへ生まれ出づる悩み」、ラッセル「教育論」についての感想を投稿する予定。

スピノザ「エチカ」や漱石も読みたいと思っている。

私と社会〜最近の脳内流行〜

私と社会

 

今自転車で急ぐように帰る人々には、いつもある種の共通項が存在している。ママチャリに乗っていても、クロスバイクに乗っていても殆ど普遍的に見られるこの共通項は、立ち漕ぎであったりとか、力をより蓄えるようにと背中を丸めるようにして漕ぐのであったりとか、醒めた目で見れば演技的にも思われる類のものである。このような癖は少なくとも日常的に、無意識的に行なっているのでは勿論ないだろう。おそらくは、自分は急いでいる、急ぎたいという意識的な思念が、自分を、一般が急いでいる時に彼らの観念から行う行動(背をまるめてこぐなど)を、自分にも強制させるからだと考えられるし、またそれが何故もっとも正しい、もっとも効果的な解ではないという可能性があるにも関わらず、急いでいる時決まってその行動をとるのは、それが自分は急いでいるという境遇に満足して浸れるものであるからというものが考えられる。これらの発想が実際に間違いではないという証左として、ジロデイタリアやツールドフランスなどのプロの自転車選手のペダリングの仕方を見てみると、上のような漕ぎ方は全くもってしていないのである。上のような漕ぎ方をすると、大臀筋が効果的に使われず、ふくらはぎや大腿の前側の筋肉を使って漕ぐことになるので、すぐに疲れるし、あまりスピードが出ない。

さて、何故私はこのような社会的な視点から見てみれば意味のないように思われる個人の行動について言及せねばならないのであろうか。そこにはこの文章における修辞的比喩的意味あいが多分に含まれている。人々が危機的状況(急がなければならないのが、常に危機的状況と判断されるに値するかという問題は、ここでは議論のそとに置いておく。)に直面した時にとるのが自分の考えたくないことをの起こる可能性を捨象して自分がひとまずの満足にひたれる方策を採用するというのが、よくよくとってみれば意識の面ではあまり大差ない事柄なのではなかろうか。

その一方、私がこのような指摘を行うと、「批判や評論ばかりするな、頑張っているんだから、やらないよりはやる方がマシだろう」というオコトバをくださる方がいるのである。ちなみに、私の付属中時代の担任がそうであった。さらにいえば、担任団のほとんどがこの意見に同調していたし、公立中時代の担任団は私の観察からみて5名中2名が完全肯定自分も「頑張りたい」、2名やや肯定的か、1名そうでない場合もあるといって風であった。感情的もしくは恣意的に言を呈するのは害悪的だし非建設的であるが、理性的に批判すること自体は帰結的にはその具体的理想像に基づく計画の質を向上させるものである。(純粋理性批判という書物を読まなきゃならんことに今気づいた!)また、勿論、私も良く考えられた挑戦は肯定するし、「批判や評論ばかりやって」自分の具体的理想像を持たず何も「やらない」のは問題だと考えているけれども、その人々のやっている行動が「頑張っている」と精神から評価できるのかというのは別問題であるように思う。例えば、極端な例を挙げれば「三菱重工爆破事件のひとたち」も彼らにしてみれば「頑張っている」のかもしれないが、中国主義や反新植民地主義というのは現在では相容れない思想であるように思うし、1970年代においても中国共産党一党独裁により腐敗した官僚は多く存在したわけで、彼らのやっていることが「資本家の搾取」と結果的に同義的であるという事実と中国共産党の信奉は矛盾していないかという疑問は一般に絶えず存在するように思われる。

ここまでなら、題名は「社会」だけで済まされるはずである。個人的にはここから先が自助努力的に解決するべき「問題」なのである。理性的な批判は(抽象的概念の理解度を高める必要がある)、長くその状態が続いていると冷笑的になってしまいがちなのであるが、冷笑的な態度をとるということはその事柄に対し、当事者的に考えない、その事柄について積極的に考えるという関わりを断つということを意味するのではないかと思う。どうしても疲弊してしまった時、不愉快になった時はしょうがない(あ、しょうがないは禁句だった)のかもしれないが、極力冷笑的な人格にならないようにすべきだし、最終的にはこちらが具体的理想像を明示するようにしたいともっぱら考えて私は勉強している。今日は遅いのでここまで。

商業的契約の意識は学校への積極性をもたらすか

商業的契約の意識は学校への積極性をもたらすか

 

このアイデア、まあ提案としての意味もあるは僕が先日書いた回顧談を見直すうちに思いついたものである。また、僕が回顧談を書こうと思った動機も、このアイデアのようなどうすれば自意識を学校に行くという風に持っていけるか、という問いに答えるものを生み出すことにあると考えられるので、とりあえず回顧談は休題としたい。

 

僕にとって学校は心理的ストレスになる場所という意味合いが強かった。それはなんでだろうか。

 

思えば僕は級友とは仲良くしたい、仲良くすべきだといういわば行動規範にも近いものをもって学校生活を送ってきていたように思う。だが、考えてみれば、まあ自分自身全ての友達と仲良くしたいなんていうことはこれっぽっちも思っていないけれども、それでも、仲良くなるということを前提に対話や友達付き合いをするなんてことはどだい僕には無理だったんじゃないかと思う。ああこいつはいい奴だ(このいいやつというのは道徳的にいいやつという意味では勿論ない。)と思ってはじめて友達であるという認識をもつべきだったのではないだろうか。あんまりパッとしない発見かもしれないが僕にとってはニュース記事レベルだ。

 

この「仲良くすべきだ」的な倫理意識は、学級とは敷衍していけば、学級は一つの共同体であるべきだという東アジア的な考えにつながるのではないだろうかと思う。つまり、学級に所属する生徒は人格や精神や知性なども含めて、全的な存在として、学級内においてもお互いに接するべきだという考え方である。だからこそ、僕は一般的に言う「友達付き合い」したり「よく喋ったり」するやつとでも、友達として精神的に交歓すべき相手としてみなしてきたわけで、それが僕の学校生活の不満足の要因だったように今となっては思う。

 

一方で、「アア、こいつはいいやつ」だと思う人間がどれだけいるかということだが、その数は学校という学力試験だけで選りすぐられた人間の集まる場所においては、天然記念物なみに少ないわけで、そのほかの大部分の僕がstressfulになってしまう人間に対してはどういう意識をもって接すればいいのかという話になる。尤も、ここが一番の問題である。学校生活のみならず、社会的に日常生活を送る上で必要になるのがこの問題にたいしてどう処置をしたかということである。

 

そこで、僕は商業的に契約を結んでいるのだと考えればよいのではないかと思う。つまり、自分という自己の全的人格を共同体に提出するのではなく、あくまで商業的に、「公共には自分のvalueableな能力だけを売ります、そこで学校や学級が僕になにかしら有益なものをくれるのならね。」「ただし、僕はそこで私的な取引や精神的な交歓などのprivateな行為は一切しませんよ、友達という概念や共同という概念は存在しません、まあ気に入ったやつとだけ話すのはbusinessのなかでたまたま出会った人と交友がはじまるのだと思って勝手にさせてください」「文化祭?僕は共同で文化を作りあげるなどという私的な自分の人格に関わる行為は面白くない限りごめんです」という風に、学級を人格の集合体だと見ずに、あくまで学級運営のためにいろんなやつが無作為に集まった場所で、まあ社会契約だと見れば良いんじゃないだろうか。ディスカッションなんかはあくまで聞く側と情報や文献の収集に回ればよい、うまくいくかどうかは別にして。

ブログ「してほしい教育と必要な教育の違いについて」の感想2/2

感想は前半部分に対しての感想と後半部分に対しての感想というふうに2つに分けて書いたので、今回は後半部分に対しての感想を発表したい。

正直に告白すると、先生が前半部分に書かれていたことについて僕は「ああその思想の必要性はわかっているのに」とあまり集中せずに読んでいたのだが、後半を読んでハッと自己反省した。重要なのは「わかっている」だけでなく自分のこととして考え続け行動し続けることであって、自分が前半部分を読んでぼやっと自然に思い浮かんだ悪魔の一言は、先生の努力を愚弄するにとどまらず、自分の可能性を自己遮断してしまうことだったと思う。生きるには徹底的な真摯さが不可欠なのである。容易に定型的なドグマへと堕するというのが人間の歴史です。イエスの踏み込んだ主張やソクラテスの「無知の知」という根本的な疑いですら、定型化することで無害化した上で、それがあたかも踏まえられてきたかのような顔をしては、踏みにじってきた

という主張は、前回のブログでの先生の発言である。「自己を超越する、自己の考えうる世界を拡張するという行為が宗教の広がりと興隆とともに本義からはずれ儀式化されてきた」(これは僕の表現だが、意味を厳密に定義できていないのが、使い物にならないことを証明している。)もしかしたら僕たちが生きることを怠慢することを目論見、間接的な対話の一部として毎回ブログを書いてくださってるのかもしれないが。

 

この「精神の柔軟性」(筆者注;同じような意図を含んでいると推察される表現として、『「自分の感じる違和感」に対して疑いをもつこと』や、『根本に自らの感覚を疑う姿勢』があった。)は一方では資質によるとも思うのですが、それよりはむしろ環境というか、要は「自分がこのままでは通用しない!」という危機感があるかないかが結局精神の柔軟性を準備するのでは、と思っています。危機感のない子は、非常に頑なであることが多いです。そのように世界を狭めては、うまくいかないままになってしまうことになるのでしょう。

ここが僕のなかで一番悩ましいところである。そもそも、何故僕が僕自身の回顧を中断まあ回顧といっても自分が追及しないところもあるわけだし、そこには何かしら悪い意味での甘さが残る。本当に読む価値のある批判的回顧というものは、再読しても、他者が読んでも、必然的に現在の自分のあり方を再回顧するようなものであるべきだと思う。そうしないと、その回顧は自分のツラさを一時的にしのぐ為だけに使われることになるのではないか。。(これは確信的に述べているわけではないが。)また、僕が近日ひたすら自分に甘さが残っているぞ、もっと強さを。と念仏のように自分の心に対して唱えているのは自分で自分自身に対して「うまくいかない」現実を危惧してでもそれがなかなか変えられないという葛藤が表層にある心に理性からのぼってくるからなのである。だがそのただひたすらの自分の呵責にしばられて真に効果のあるものを何もためせていないのが進退つかないところなのだろう。

 

以上、勢い余って感情を出し過ぎたせいで文構造がおかしなことになっている部分が散見されるがみなさんは冷静な目で見てくれることを願う。

ブログ「してほしい教育と必要な教育の違いについて」を読んでの感想1/2

先日書いたブログ「再考1」の続編を書こうと思い、googleを開いたら、塾長のブログが更新されていたので、それについての感想を書くことに予定を変更した。

鉤括弧で引用しながら思ったことを書き綴る形式をとりたいと思う。

 

してほしい教育と必要な教育の差異がなぜ生まれるのかということについて、「その子にとって本当に必要なものを、その子自身が理解できているわけがない(中略)今までにさんざん悩んできたからこそ自分にとって必要なものを必死に探してきていて、自分に必要なものを求めているという状態に近づいている受験生、というのはたしかにいます。しかし、これは非常にレアケースでして、ほとんどの子たちは自分に必要なものと自分が求めているものとに乖離がある」と述べられてある。つまりこれは自分の考えている、想定している世界像というものは非常に非実体的で、現実との間に乖離がある、そしてその乖離というのがなぜ生まれるかというと、自分の未熟な思考能力では、外的世界および内的世界について考えられていない(考えが足りないもしくは命題としていない)部分があり、そのような認知状態のなかでは、自分が自分自身の思考の段階向上のために何が効果があり、どのようにすれば効率的かということについての発想が必ずしも正しいものとは限らないむしろほとんど正しくないのだと言うことだと思う。僕自身、塾に入って、今までの勉強に対しての思いが一気に言語化された気がした。(入塾前は受験のために勉強するという理論に矛盾というか発想力のなさを感じ、自分は将来の研究のために勉強しているのだと公言していたが、それも矛盾しているところがあると気づいて迷っていた。)先生はこのように必要なものとしたいものの間に絶対的な乖離があるからこそ「勉強ができない」と述べられていたのだが、僕自身の今の勉強に対する価値観としては、この乖離をうめるためにするのが勉強であり、乖離をせばめることのできない勉強は形式的なもので人生における意味はあまり見出せないというstanceである。

なぜ僕は学校へいけないのか。再考1

なぜ僕は学校へ行けないのか再考1

 

自我の克服と露呈は誰にとっても恥辱の感を至らしめるが、その露呈こそが克服のinitial stageになりうることを意識して、この原稿を書いた。

 

いったいなぜ僕は学校へ行けないのであろうか。ここで「行けない」という言葉を遣ったのは、もちろん「行かない」ことを「選択」するのは現代の日本において正解の一つではあるのだが、そして僕が学校へ行っていないのはそうした「行かない」という選択による部分的理由もあるのだが、僕の場合は精神的に「行けない」部分があると殆ど確信したので、それを書くまでである。なお、この「行けない」理由となる精神構造の内容は、他の諸賢にとってはともかく自分にとっては大変なものと認識しているから、「行けない」理由となっているのである。

 

僕が学校へ行けないのは、まず、弱者と強者の問題と密接に関係しているということができるだろう。思えば、小学校の頃は、社会的には強者であった。より平たく表現するならば、「強者であると思われていた」。代表委員会では委員長を務めていたし、成績もおそらくクラスではトップだった。批判的に考えれば、代表委員会にいるからといってなにかができる訳でもなく、実際の学力面ではおそらく学年で3~5番手で、個人的には思考構造的にバカの部類に属す人だった。通念的に優等生の称号が与えられていただけだし、その称号は純粋に僕のために与えられたものではなく、級友たちが学習面で努力をしないことの言い訳として彼らのために与えられた醜いものなのであるが、稚い僕にはそうしたことが社会の普通であるということがわからず、ただ僕を理解してもらえない、級友ひいては多数派による自己人格の冒涜であるかのように感ぜられた。よって、僕は小学校そして中学校前期においては社会においては全人的に「優等」として接せれらて、自分の悩みに気づいてもらえない恨めしさと、精神的にほとんど大人に達しているかのように感じられた級友の幾人かの「女性」と学力的に僕が尊敬すべき力を持つ少数の同性の同級生の先天的才能に対する羨ましさを抱いて、自分は自分のことを弱者と感じているけど周りは自分のことを強者と感じているという矛盾を潜在的にもしくは普通の感情として嫌ったのである。

悪とは何なのか

 

以下は、昨日の最寄りの駅からの帰宅中の出来事である。
「他の人のせいにするな!!
悪いのは誰だ?悪いのは誰だ?」このような男の罵声とともに、幼女の泣き声が聞こえてきた。
本来なら「そのような音は聞こえなかった、自分は意識しなかった」として通り過ぎるのだろうが、昨日の夜は、その音を跳ね返して進むほど自分の思考機械としての意識は鋼鉄の強い盾を具備してはいなかったのだ。ここでは、男の発言内容について触れながら、その発言が自分の思考の発動を誘発した心理的原因を整理したいと思う。
これが国語の入試問題だとすれば、悪いのはその幼女だとその男は思っていることになるのだろう。
だが、そもそも「悪」とは何なのであろうか。辞書的解釈の例を取れば、「社会的規範に背く否定すべき事柄」となる。だが、それはつまるところ絶対的ではない。今まで絶対的だと思われてきた「時間」も相対的であるように、世界に絶対的なものなどないのかもしれないが、少なくとも僕には現代における悪という概念は、その象徴性が大きな特徴であるように見受けられるので、前出の「関数的」な定義は実用的でもないし、僕にとってみれば実際的でもない。
確かに、実際に「善」ではない行為をしたのはその幼女かもしれないが、だからといって彼女が「悪」とは思えない。僕は「悪」とは個々人の精神空間に存在する概念だと思うし、その行為が「悪」と認められるには、他者が認めるだけでは、それは「悪」とは認識され得ず、その「悪」とされるべきことを考えるもしくは実際にした主体がその行為が「悪」であると認識しなければ、それは「悪」とは言えないのではないかと考えている。
もうわかっているよ、字義の解釈をしても現実の変革には結びつかないよと思われる読者もいるかもしれないが、そのような無意識の日常に潜む我々の思考を制限してしまうものを見つけていくこと自体が、我々の思索的行為を研ぎ澄ますものであって、そこに社会科学や人文科学をやることの一つの意義があるのではなかろうか。