ブログ「してほしい教育と必要な教育の違いについて」を読んでの感想1/2

先日書いたブログ「再考1」の続編を書こうと思い、googleを開いたら、塾長のブログが更新されていたので、それについての感想を書くことに予定を変更した。

鉤括弧で引用しながら思ったことを書き綴る形式をとりたいと思う。

 

してほしい教育と必要な教育の差異がなぜ生まれるのかということについて、「その子にとって本当に必要なものを、その子自身が理解できているわけがない(中略)今までにさんざん悩んできたからこそ自分にとって必要なものを必死に探してきていて、自分に必要なものを求めているという状態に近づいている受験生、というのはたしかにいます。しかし、これは非常にレアケースでして、ほとんどの子たちは自分に必要なものと自分が求めているものとに乖離がある」と述べられてある。つまりこれは自分の考えている、想定している世界像というものは非常に非実体的で、現実との間に乖離がある、そしてその乖離というのがなぜ生まれるかというと、自分の未熟な思考能力では、外的世界および内的世界について考えられていない(考えが足りないもしくは命題としていない)部分があり、そのような認知状態のなかでは、自分が自分自身の思考の段階向上のために何が効果があり、どのようにすれば効率的かということについての発想が必ずしも正しいものとは限らないむしろほとんど正しくないのだと言うことだと思う。僕自身、塾に入って、今までの勉強に対しての思いが一気に言語化された気がした。(入塾前は受験のために勉強するという理論に矛盾というか発想力のなさを感じ、自分は将来の研究のために勉強しているのだと公言していたが、それも矛盾しているところがあると気づいて迷っていた。)先生はこのように必要なものとしたいものの間に絶対的な乖離があるからこそ「勉強ができない」と述べられていたのだが、僕自身の今の勉強に対する価値観としては、この乖離をうめるためにするのが勉強であり、乖離をせばめることのできない勉強は形式的なもので人生における意味はあまり見出せないというstanceである。