なぜ理解することが必要なのか

なぜ人間は自分の対峙している物事を理解することが必要なのでしょうか?

このような質問に対する返答として、容易に想像できるのが「人間の頭脳は習ったすべてのことを正確に記憶できるわけでは無いから」と言う物です。つまりは外的世界の情報量は人間の脳が記憶または処理できる量を超えているため、より効率的に外的世界のことを学習する手段として物事を理解することが有効であると言う考えだと思います。

しかし理解することの効能は本当にそれだけのためなのでしょうか。もしそれだけなのだとすれば、それは「受験勉強の基本は暗記でできる」と述べている社会学者(彼は学会に属する人なら誰でも知ってる位高名な人ですが )にとっては受験勉強でやる学習内容を理解すると言う意味は全くないことになります。それでは実際に全ての人にとって目の前の物事を理解する試みが意味があるものであると言う事はできないでしょう。

僕は物事を理解することの意味はそのような短期的な経済的目的のためではなくもっと長期的な人間的成長のためにあると考えています。そして物事を理解することは大きく分けて2つの長期的利点があると思います。

一つ目は、学習内容を普遍的法則化することによる、将来の状況の想起が行えるという点です。これは一見すると、僕が先ほど批判的に捉えた理解することの有効性についての論理と同じようですが、微妙に異なる点があります。僕が先ほど否定した主張は、あくまで「データ圧縮」であるということに注意していただきたいです。普遍的法則化がなされるまで理解しようとすることは、経済的目的のためには通常できえないことです。

二つ目は少し哲学的です。まあこのようなことを考えること自体が、comtemporary general publicには哲学めいて感じられるのかもしれません。が、物事を理解する時に現象する精神の変化を観察すれば、僕の発言は当然のことのように映ると思われます。

すなわち、理解するということは、今までの自分の意識または認識を掘り返す取り組みであるということです。これは、自己にとってみれば、内的世界の変革であり、理解するという行為がなされるとき、様々な自分の持ちうる分析手段を講じて自分の今までの外的世界の認識を再認識します。この真摯な認識の多発が人生において求められるものであり、だからこそ我々は理解することが本質的に必要なのです。

こう考えた時、能楽創始者世阿弥の「初心忘るるべからず」は、とてつもない意味を持つのです。

自己紹介として

簡単に運営者の自己紹介をします。

 

 

生命科学や人間科学、哲学や倫理思想史、政治過程史、法経済学など我々の存在の根源ともいえる部分への興味が強い高校生です。

文学では、フランス文学と日本の新感覚派、戦後派、余裕派の作品を好む傾向にあるようです。

クラシック音楽では、モーツアルトラフマニノフ、ショースターコヴィチ、マーラーを好みますが、精神的に辛い時に聞くともっとキツくなるので注意すべきです。。そういう時はメンデルスゾーンシューベルトを聞くか瞑想、焚き火やな!

今後の課題としては、実際的英語能力の向上、数理的な部門における専門的思考能力の育成、総合芸術の勉強、理科学の先取的学習などを見つけております。
「面白く」「懸命に」「自分で考える」をmottoとして日々生活していきたいです。

まあこれらが僕について語れる一般的な身の上話でしょう。

なんかgoogle translation みたい..